馬込文士村探訪


                                                   

「川端康成」「三島由紀夫」「北原白秋」

日本文学の夜明けを迎えた明治時代から受け継ぎ、
日本文学が衰退していく昭和中頃まで、文壇華やかしき時代に存在していた文士達、
知っているようで有りながら、全く未知な存在、そんな方々が、東京の馬込に(既に画家などが集まっていた)
集まり住んだということです。

何故、夢窓 万華がその時代の作家でなかったのか、
その答えは永遠に封印された貝殻の中に眠っているような理由があるのでしょう。

よって、文士達への憧れ心を抱きながら、その文士村を探訪してみることにしました。

  全体イメージマップ
  探訪の足跡
  日本文学の夜明け
                                                   

文士達から後を継いだ作家で、最も皆さんに馴染みのある作家ではないかと思われる

「遠藤周作」

がこんなことを書いています。

『何を創ったかということが大切なんです。
。。。つまらん小説を創って、創る行為の優位を誇るのは意味がないと思うんです。
小説家は世界中、ウヨウヨ居ますが、彼等の存在価値が有るのは、傑作を書いた時だけでしょう。
。。。日本の作家や批評家達は、お前さん達の専攻しているフランスの作家に比べると、遥かに劣ると言いたいわけだな。』

『自分も一流品を創りたいという欲望は誰だってあるだろう。
しかし、俺達の中にはどう努力しても一流になれぬ二流の人間がいる。
二流の者には一流の芸術品を生涯掛かっても創れはせん。
これは殆ど宿命に似たものだ。
寂しいけれど、自分が二流である場合、それはいつか、自認せねばならんものだよ。

。。。だがね、こいつらはやがて復讐を受けるんだ。

二流のくせに一流の生き方をしようとした復讐を受けるんだ。
フランスの小説家に比べれば、三流の作家だろうよ。
日本で一流となっても、なるほどパリのそれに比べれば三流の作品しか創れぬかもしれん。
しかし、ここで自分の才能を過信してみじめに果てるのと、三流でも三流なりに自分の才能をともかくも生かしたのと、どちらが幸福かなあ。

。。。三流の者は自分が一流でないという寂しさを生涯持たねばならぬ。』