1869年11月22日 |
フランス・パリに生まれる
父はパリ大学法学部教授であった |
1877年 8才 |
アルザス学院に入学
成績は不良で、はしかに罹り退学、その後復学と退学を繰り返す |
1888年 19才 |
アンリ4世校に転校する |
1889年 20才 |
07月の大学入試資格試験(あの有名なバカロレアですね)に失敗するが、10月に合格する
しかし、大学には進まず、文学者として生きていこうと決心する |
1891年 22才 |
従姉のマドレーヌに求婚して、拒絶される
(「狭き門」のアリサのモデルで、彼女も母の不義に苦悩していたらしいです)
パリ大学哲学学科に登録するが、直ぐに退学する
「アンドレ・ワイテルの手記」を発表するが、殆ど無視される
その後、肺結核を病み、療養と旅行と数冊の本の刊行をして過ごす
(なんとも羨ましい立場ですね、裕福な家庭に生まれた幸運ですか。。。) |
1895年 26才 |
母が他界する
06月にマドレーヌと婚約し、10月に結婚式を挙げる |
1899年 30才 |
この頃になって、ようやく作家としての生活が充実し始め、ソロソロと作家人生を上っていく |
1909年 40才 |
「狭き門」を雑誌に連載し、一般に認められるようになる |
1916年 47才 |
同性愛的傾向の為、家庭に破綻が始まる
(お相手は当時17才のマルク・アレグレ、後に映画監督になったそうです) |
1921年 52才 |
この頃、シェイクスピアの仏翻訳も手がける
エリザペート・ヴァン・リセルベルグと同棲を始め、雑誌にその背徳性を攻撃させる
(ちなみに「背徳者」は既に出版されていました) |
1923年 54才 |
エリザペート・ヴァン・リセルベルグとの間に娘カトリーヌ誕生 |
1925年 56才 |
コンゴに旅立ち、植民地の惨状をみる |
1932年 63才 |
共産主義やソ連への共感を表明する |
1933年 64才 |
ナチ抗議の文章を発表する
反戦・反ファシズム世界青年会議の名誉議長となる |
1938年 69才 |
マドレーヌ夫人が他界する
(この哀しみの為に「今や彼女は汝の中にあり」を執筆したらしいです) |
1939年 70才 |
第二次世界大戦が始まる |
1940年 71才 |
パリ陥落の為、南仏に逃れる |
1945年 76才 |
ドイツ・フランクフルト市からゲーテ勲章を贈られる
この頃、シェイクスピアの仏翻訳が上演されたり、小説が映画化されたりする |
1947年 78才 |
イギリス・オックスフォード大学より名誉博士号を贈られる
ノーベル文学賞を受賞する |
1950年 81才 |
マルク・アレグレが映画「ジットとともに」を製作する |
1951年02月19日 82才 |
パリの自宅で永眠する
マドレーヌの眠るキュヴェルヴィルの小さな墓地に葬られる |
1955年 |
ローマ法王庁はジッドの全著作を禁書とする |
1968年 |
アンドレ・ジット友の会がつくられ、会長は娘カトリーヌ、名誉会長はマルク・アレグレ |