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KIRA_PINK 「ジッドについて」
KIRA_PINK 「作品集」
KIRA_PINK 「名言集」
KIRA_PINK 「ジッドの足跡」



「フランス(アンドレ・ジッド)」

 フランスには、実に文豪が揃っていて、「赤と黒」のスタンダール、「レ・ミゼラブル」のビクトル・ユーゴ、「大いなる遺産」のチャールズ・ディケンズ(イギリス?)、 「椿姫」のデュマ・フィス、その父「三銃士」のアレキサンドル・デュマ、「ボバリ夫人」のギュスターヴ・フローベルと。。。 その他にもジョルジュ・サンドやサガンといった有名な女性達も居て、数え上げたら一晩掛かってしまうかもしれません。
そんな文学王国フランスの中で、私はジットをこよなく愛しています。「昭和ロマン」をお読みになった方々はご承知かと思いますが、 デビュー作の巻頭にジットの言葉を載せた程、私は彼の作品が大好きです。
何故そんなにも私がジットを好むのかと言いますと、「女の学校」「イザベル」「田園交響楽」といった作品を是非読んでみて下さい。 男性が書いたものとはとても信じ難い程の、繊細さや女性特有の微妙な心の変化等が、実に美しく描かれているのです。
勿論、ノーベル文学賞を獲得した「狭き門」こそがその頂点かと思うのですが、あれはその域が強すぎて何人にも受け入れられるとは俄かに思えない節もあるので、まずは前者の3作品をお薦めします。
そして今から90年前のフランスの文学界が、まるで現在の日本の文学界と重なるかの様に、ジットは作品の端々で、衰退して行く文学を嘆いています。
「書き手はうんと有るが、読み手は碌に無い。それは事実だ。人は段々読まなくなる
…他人の口振りを借りて、己を推して考えればだな。結局は、破滅が来るだろう。
恐怖に満ちた素晴らしい破滅が。人は印刷物なんか甲板から投げ落としてしまうだろう。
そして、もし最良の物が底へ行って最悪の物と一緒にならなかったらば、それは奇跡というやつさ。」
「良書を満喫した頭脳は、低俗な文学に対して余り食欲を感じなくなるからです。」
エッセイというのは単なる他人の日記であって、低俗な覗き趣味の他になにものでもないのだから、決して文学とは呼べない
と常に私も思っています。しかし、日本人がそれを好んで求めて本屋に入ってしまうのだから、そんなものを文学と呼ぶ文化を否定することは出来ないのかもしれません。





「作品集」

1893年「コリアンの旅」
1893年「愛の試み」
1894年「パリュード」
1897年「地の糧」
1899年「鎖を離れたプロメテ」
1899年「フィロクテート」
1899年「エル・ハジ」
1902年「背徳者」
1903年「サユール」
1903年「プレテクスト」
1906年「アマンタス」
1907年「放蕩息子の帰宅」
1909年「狭き門」(ノーベル文学賞受賞作)
1910年「オスカーワイルド」
1911年「イザベル」
1912年「スワン家の方へ」
1914年「法王庁の抜穴」
1914年「重罪裁判所の思い出」
1916年「一粒の麦もし死なずば」
1919年「田園交響楽」
1920年「ユリドン」
1924年「アンシダンス」
1926年「偽金つかい」
1926年「偽金つかい日記」
1928年「チャド湖より帰る」
1929年「女の学校」
1929年「偏見なき精神」
1930年「ロペール」
1930年「ポワチエ不法監禁事件」
1930年「ルデュロー事件」
1935年「新しき糧」
1936年「未完の告白」
1938年「今や彼女は汝の中にあり」
1943年「架空会見記」
1946年「テゼ」
1949年「秋の断想」
1952年「死を前にして」





「名言集」

  「狭き門」
  『私達の徳が努力を傾けるのは、それは将来の酬いと言ったものを思ってではないんですの。 私達の愛が求めているのは、将来の酬いではないんですの。 自らの辛苦に対する報酬といった考えは、よき魂にとって、それを傷付けるものなんですわ。 徳は、そうした魂にとっての装飾物ではありませんの。 それは、そうした魂の美しさの形そのものなんですの』

  「イザベル」
  『世の出来事がどんなに意地悪く、我々にその一層面白い面を見せまいとしているか、僕には未だ解らなかったのだ。 又無理矢理出来事に入り込む術を知らない者に対しては、どんなにわずかしか手掛かりを与えてくれないものか、未だ解らなかったのだ』
  『思想は花の様なものです。 朝摘み取った花は一番長持ちしますからね』

  「法王庁の抜け穴」
  『書き手はうんと有るが、読み手は碌に無い。それは事実だ。人は段々読まなくなる…他人の口振りを借りて、己を推して考えればだな。 結局は、破滅が来るだろう。恐怖に満ちた素晴らしい破滅が。人は印刷物なんか甲板から投げ落としてしまうだろう。そして、 もし最良の物が底へ行って最悪の物と一緒にならなかったらば、それは奇跡というやつさ』

  「一粒の麦もし死なずば」
  『他人の同情は、昏睡状態に有る多くの美質を覚醒させるものだ。 …世の悪人どもの最も始末に負えない奴は、幼かった頃温情の微笑を知らなかった連中だと思い当たることがしばしば有った』
  『結果はゼロだった。 だが僕の性格は変わっているので、この失敗が反って快かった。 あらゆる悔恨の奥には、耳の有る者の為には「これも経験さ」という言葉が潜んでいる。僕はその言葉に耳を傾けた。 僕は、自分を見捨てる成功なんか欲しいと思わなくなった、少なくも、別種のものであれかしらと願う様に成り、喝采の量より、質が大切だと信じるに至った』

  「田園交響楽」
  『もし人間に、いい加減な反対を唱えて嬉しがる癖がなかったら、世間の物事は随分すらすら運ぶに違いない。 周囲の者の、「あいつに何が出来るものか」と繰り返す声が耳に入るばかりに、私達は、したいと思うあれやこれやのことを、 子供の頃からどれだけ手を着けずに過ごして来たことだろう』
  『几帳面な女の常として、義務をなおざりにしない一方では、その限界を超えることも差し控えたがるのである。 愛の泉も、いつかは汲み尽くされる時があると思うのか、妻の慈悲心には、おのずからなる節度があった』

  「偽金つくり」
  『私が書きたいのは、彼等の為である。 まだはっきりしない好奇心に糧を与え、又それと判らぬ要求を満たしてやることだ。 従って、今日はまだ子供に過ぎない者が、明日はその途上で私に出会って驚くのだ』
  『何か誘惑を斥ける度に、自分の性格の強さを祝福したものだ。 自分を解放するつもりで、実はいよいよ慢心の奴隷となりつつあることが、解らなかった。 己に打ち勝つ勝利の一つ一つは、己の牢獄の扉に掛ける鍵の一回しだったのだ。 …神様は、私に、慢心を美徳だと思い込ませた。 私を愚弄したのだ。 そして、面白がっている。 …我々が抵抗出来ないことを承知の上で、色々な誘惑を仕向ける。 それでもそれに耐えると、もっとひどい復讐をする。 何故神様は我々に恨みを抱くのだろう?』

  「女の学校・ロベール」
  『金というものは自分の意志を実現させる為の武器』
  『自分の心の中をはっきりと見極める為に、…無論、多少の生活体験が無ければ、 人が人生に於いて追求するものは、時として自分の大切に思うものを犠牲にしなければそれに到達することは望み得ないということを、 理解することが出来ない』






「ジッドの足跡」

1869年11月22日 フランス・パリに生まれる
父はパリ大学法学部教授であった
1877年 8才 アルザス学院に入学
成績は不良で、はしかに罹り退学、その後復学と退学を繰り返す
1888年 19才 アンリ4世校に転校する
1889年 20才 07月の大学入試資格試験(あの有名なバカロレアですね)に失敗するが、10月に合格する
しかし、大学には進まず、文学者として生きていこうと決心する
1891年 22才 従姉のマドレーヌに求婚して、拒絶される
(「狭き門」のアリサのモデルで、彼女も母の不義に苦悩していたらしいです)
パリ大学哲学学科に登録するが、直ぐに退学する
「アンドレ・ワイテルの手記」を発表するが、殆ど無視される
その後、肺結核を病み、療養と旅行と数冊の本の刊行をして過ごす
(なんとも羨ましい立場ですね、裕福な家庭に生まれた幸運ですか。。。)
1895年 26才 母が他界する
06月にマドレーヌと婚約し、10月に結婚式を挙げる
1899年 30才 この頃になって、ようやく作家としての生活が充実し始め、ソロソロと作家人生を上っていく
1909年 40才 「狭き門」を雑誌に連載し、一般に認められるようになる
1916年 47才 同性愛的傾向の為、家庭に破綻が始まる
(お相手は当時17才のマルク・アレグレ、後に映画監督になったそうです)
1921年 52才 この頃、シェイクスピアの仏翻訳も手がける
エリザペート・ヴァン・リセルベルグと同棲を始め、雑誌にその背徳性を攻撃させる
(ちなみに「背徳者」は既に出版されていました)
1923年 54才 エリザペート・ヴァン・リセルベルグとの間に娘カトリーヌ誕生
1925年 56才 コンゴに旅立ち、植民地の惨状をみる
1932年 63才 共産主義やソ連への共感を表明する
1933年 64才 ナチ抗議の文章を発表する
反戦・反ファシズム世界青年会議の名誉議長となる
1938年 69才 マドレーヌ夫人が他界する
(この哀しみの為に「今や彼女は汝の中にあり」を執筆したらしいです)
1939年 70才 第二次世界大戦が始まる
1940年 71才 パリ陥落の為、南仏に逃れる
1945年 76才 ドイツ・フランクフルト市からゲーテ勲章を贈られる
この頃、シェイクスピアの仏翻訳が上演されたり、小説が映画化されたりする
1947年 78才 イギリス・オックスフォード大学より名誉博士号を贈られる
ノーベル文学賞を受賞する
1950年 81才 マルク・アレグレが映画「ジットとともに」を製作する
1951年02月19日 82才 パリの自宅で永眠する
マドレーヌの眠るキュヴェルヴィルの小さな墓地に葬られる
1955年 ローマ法王庁はジッドの全著作を禁書とする
1968年 アンドレ・ジット友の会がつくられ、会長は娘カトリーヌ、名誉会長はマルク・アレグレ





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