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「ヨハン・フォルフガング・フォン・ゲーテ」
ドイツが生み出したこの偉大な作家の名を知らない方は、多分居ないでしょう。
臨終際の言葉「もっと光を」というのを聞けば、あ〜、と思い出される方も多いはず。
これ程までに、世界中の人々から慕われ愛されている作家は、数える程しか居ないというのに、ゲーテ所縁の地であるフランクフルトでも、ゲーテ像に落書きがして有りました。
自分勝手という傲慢さには、その偉大さがどれ程凄いことなのかと教える術など無いのかと、ホトホト情け無くなったのですが、まぁ昨今では、私達の回りでも老若男女を問わず、そんな輩はゴロゴロとしていますね。。。
(実は「絵島」もそんな中から生れた小説なんです)
ゲーテの代表作である「ファウスト」では、この人間欲が主人公の博士を通して見事に描かれ、悪魔「メフィストフェレス」さえ、その強欲の前では舌を巻くのですが、神に選ばれたファウスト博士を自分の物に出来るという欲の前に、悪魔自身その身を滅ぼしてしまうという、
その創造性には、脱帽させられることと思います。是非、生涯に一度は読んでみてください。
ところで皆さんは、鏡の中の自分自身を見詰めてどう思われますか?キリッとした賢い顔をしているでしょうか?
世の中の人が一歩足を止めて、自分が他人にしようとしているその行動を相手の立場になって考えられるそんな時代が戻らない限り、この世界も滅ぴの一途を辿ってまうのではないでしょうか?何故なら、メフィストフェレスの様な間抜けな悪魔は、もう居ないからです。
作品紹介
1774年「若きウェルテルの悩み」
『運命がしかけるちょっとした災難を、いままでのようにくよくよ反芻(はんすう)するのはやめよう。
…人間が−なぜ、そんなふうになっているのかわからないが−いろいろと想像力を働かせて過ぎ去った不幸の思い出をつぎつぎに呼び戻したりせずに、現在を恬淡(てんたん)として過ごすようになれば、ひとびとの苦しみや悲しみはもっと少なくなるだろう』
『子供達は、自分の欲望の理由を知らない。
…けれども、大人だって、子供達と同じようにふらふらこの地上を歩き回っているのだ。子どもたちのように、自分らがどこから来てどこへ行くのか知っていない。本当の目的に従って行動しているなどといえるものではない。大人だってビスケットやお菓子や白樺の鞭で動かされているのだ。
…しあわせな市民ならば、自分の小さな庭をどんなに美しく楽園に仕上げることができるか、不幸せな人は不幸なりに重荷をせおって、いかにたゆまず自分の道を歩き続けるか、そして、誰もが同じように太陽の光を一分間でも長く拝みたいと願っている。こういうことをよく理解する人−まさしく、
そういう人は多くを語らないが、自分の内から自分の世界を創りあげて、
人間として生きていることで、幸福なのだ。こういう人は、どんなに制約を受けても、心にはすばらしい自由の感情を持っていて、出ようと思えばいつでも好きなときにこの牢獄をおさらばすることができるはずだ』
1797年「ヘルマンとドロアーテ」
1806年〜1831年「ファウスト」
1809年「親和力」
『ある人物に備わる快い赴きは、その人の外皮の上にまで広がるものなので、我々は、その人が自分の特性を新しい環境に伝達する度に何度でもその人を新しく見直しては、いよいよ美しいと思うのである』
『どんな風に身を起こそうとも、人は自分をいつでも見る人間として考える。人間が夢を見るのは、単に見ることを止めない為に過ぎないと私は思う。もしかすると、内心の光が何時か我々の外へ射し出して、
その結果、他の光がいらなくなることになのるのかもしれない』
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