1875年06月06日 |
ドイツ西北・ハンザ同盟都市リューベックで生まれる
父は同市の有力な素封家
(「ブッテンデローク家の人びと」で素封家としての父の家族のことが書かれています)
母はブラジル人とドイツ人のハーフ、リューベック門外の寄宿学校に居た |
1882年 7才 |
就学、母からもピアノや歌曲や小説の情操教育を受ける |
1889年 14才 |
カタリネリウム・ギムナジウムの実科へ入学する |
1890年 15才 |
堅信式を済ませる |
1892年 17才 |
父が他界し、母はミュンヒュンに移り住む |
1894年 19才 |
学校を卒業し、ミュンヒュンに移り住む
火災保険会社へ見習社員として入社するが、直ぐに退社する
ミュンヒュンの工業大学の聴講生となる |
1895年 20才 |
画家を目指す兄と共に翌年まで、イタリアを周遊したり、ミュンヒュンに戻ったりを繰り返す
この頃、早くも、執筆していた短編の芸術的才能を世の中に認められる
(凄いですね、人は30才前後にならなければ、物事の判断や道理や普遍性など理解出来ず、本など書けるものではないし、どの文豪もその位まで、認められることなど無いのに、まさしく天才ですね) |
1897年 22才 |
フィッシャー(4年後にヘッセを見出した方と同じかと。。。)書店の薦めで「ブッテンデローク家の人びと」を書き始める |
1900年10月 |
志願兵としてバイエルン歩兵部隊に入隊するが、腱鞘炎を起こし入院して軍務を解かれる |
1901年 26才 |
「ブッテンデローク家の人びと」が出版され、ドイツ文壇に新風を起こし、その一角に独自の地歩を占める
(ちなみに、この時の原稿料も破格値だったらしいです、あ゛〜人生って不公平ですよね。。。) |
1905年 30才 |
カチャ・プリングスハイム(ミュンヒュン大学教授の娘)と結婚する
この年からほぼ毎年、子供が誕生する |
1910年 35才 |
女優をしていた下の妹が自殺する |
1914年 39才 |
第一次世界大戦が始まる |
1919年 44才 |
ボン大学から名誉教授の称号を贈られる |
1923年 48才 |
母が他界する |
1927年 52才 |
上の妹が自殺する |
1929年 54才 |
ノーベル文学賞を受賞する |
1933年 58才 |
ヒットラー政権が成立する
スイスに亡命する、娘が原稿を救出する |
1935年 60才 |
アメリカ・ハーバード大学から名誉教授の称号を贈られる |
1936年 61才 |
ボン大学から名誉教授の称号剥奪の書簡を受け取る(亡命したから?ですかね) |
1938年09月 |
アメリカに亡命する |
1939年 64才 |
アメリカ・プリンストン大学から名誉教授の称号を贈られる |
1942年 67才 |
リューベックの生家がイギリス軍によって爆撃される |
1944年 69才 |
アメリカ国民と成る
ルーズベルト大統領に四選される |
1949年 74才 |
長男が自殺し、16年ぶりにドイツに帰る
ゲーテ賞を受賞する |
1952年06月 |
スイスに移り住む |
1955年05月
08月12日
80才 |
リューベックから名誉市民を贈られる
チューリッヒ湖畔キルヒベルクの自宅にて永眠する
同市の墓地に葬られる |