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KIRA_PINK 「マンについて」
KIRA_PINK 「作品集」
KIRA_PINK 「名言集」
KIRA_PINK 「マンの足跡」



「トーマス・マン」

 あのルキノ・ビスコンティに不朽の名作を与えた作家こそが、「ベニスに死す」を創作したこの方です。
私も夏の日の夕刻にミュンヘンの町角に立って、グスタァフ・フォン・アッシェンバッハを探したことが有ります。
言葉が小説の中の美しい少年を塑像と化したのであろうか、それともルーマニアへ旅したビスコンティが、渾身探し出したダッジオ少年の美しさが小説を越えてしまったのか、未だにその答えを捜せてはいないのですが、 私が、人間が創作した中で最も美しい小説だと評しているのは、1913年に書かれノーベル文学賞を獲得したこの「ベニスに死す」です。
その中では、様々な体験が見事に解き明かされ、最高に美しい言葉で語られ、我々の五感を心地良い場所へと誘ってくれるのです。
その一例として「孤独」について語った一節をご紹介しましょう。
  『孤独で黙りがちな者のする観察や、出会う事件は、社交的な者のそれらよりも、もうろうとしていると同時に痛切であり、彼の思想は一層重苦しく、一層奇妙で、その上必ず一抹の哀愁をおびているものだ。
一つの眼差し、一つの笑い、一つの意見交換で片づけてしまえる様な形象や知覚が、不相応に彼の心を捕らえ、沈黙のうちに沈み、意味深いものと成り、体験と成り、感情と成ってしまう。
孤独は独創的なものを、思い切って美しい、妖しい程美しいものを、詩というものを成熟させてしまう。
孤独はしかし、倒錯したもの、不均衡なもの、愚かしいもの、不埒なものをも、又成熟させるのである』
如何ですか?人は希に孤独を自ら望む事が有りますが、そういった時、正にマンの言っているものを求めようとしているのではないでしょうか?
う〜ん、ちょっと違うのではないだろうかと言う方には、こういったのはどうでしょうか?
  『愛する者は愛せられる者よりも一層神に近い、何故なら前者の中に神は有るが、後者の中には無いからだ(ソクラテス)』
ギリシャの哲学者ソクラテスが、自分の愛人(少年)ヒロドトスに対して言ったとされているのですが、愛する者を形容するのに、純真とか純愛とか素直とか一途とか汚れ無き心等と言った言葉を並べ立てたところで、 これ以上の表現が果たして有ると言えるのでしょうか?





「作品集」

1896年〜1898年 短編集
「幻滅」1896年
「幸福への意志」
「小フリーデマン」
「死」
「道化者」1898年
「トビーアス・ミニダーニッケル」
「ルイスヒュン」
1900年「ブッデンブローク家の人々」
1900年〜1909年 短編集
「墓地への道」1900年
「トニオ・クレーガ」1902年
「グラーディウス・デーイ」
「飢える人々」
「神童」1903年
「1つの幸福」
「トリスタン」
「予言者のもとで」1904年
「苦しい一刻」1905年
「ウェルズングの血」
「鉄道事故」1909年
「大公殿下」
1912年「ヴェニスに死す」(ノーベル文学賞受賞作)
1919年「主人と犬」
1919年「おさな児の歌」
1922年「詐欺師フェリクス・クルルの告白」(37年,54年に内容を追加)
(1912年〜)1924年「魔の山」
1926年「混乱と幼少の苦悩」
1929年「マーリオと魔術師」
1933年「ヨーゼフとその兄弟」(34年,36年,43年に2〜4巻)
1939年「ワイマルのロッテ」
1941年「すげかえられた道」
1944年「十戒(短編)」
1947年「ドクトル・ファウスト」
1951年「選ばれた人」
1953年「騙された女」





「名言集」

  「道化者」
  『およそ不幸というものは、たった一つしかない−自分に対する好感を失うことである。自分が自分に気に入らなく、それが不幸というものなのである。 …その他はすべて生活の遊戯であり、生活の扶植である。他のどんな悩みの場合でも、人はこの上なく自分に満足していることも出来れば、実に申し分のない様子を見せることも出来る。君自身との軋轢、悩みながらのやましい良心、 虚栄心との争闘、そういうものが初めて、君を哀れなひんしゅくすべき観物とするのである』

  「トリスタン(短編)」
  『この良心という奴が厄介なのですよ。私や私の同類は、一生涯こいつと喧嘩して暮らすのです。そして時々こいつを欺いたり、ちょっと上手に喜ばせてやったりで、目が廻るほど忙しいのです』

  「魔の山」
  『言葉は人間の誇りであって、言葉のみが人生を人間が生きるに値するものにするのである。人文主義のみでなく、−人間愛一般、古くからの人間の尊厳性、人間尊重、人間の自己尊重は、 言葉及び文学と緊密に結びついている−…従って政治も文学と結びついている。というよりは、政治はこの結合、人間愛と文学の結合から生まれるのである』
  『柔軟で蝕まれ易い為にここへ(ヨーロッパ)こんなに多くのチャンピオンを送っている東方の態度であってはなりません。−憐憫と無限の忍従、これが苦悩に対するアジアの態度です』

  「ワイマルのロッテ」
  『不思議なことに、それらの場面と思い出が大変鮮やかではっきりとしていて、細部まで精密で豊かであったのは、記憶がいわば中継ぎをされたからであって、 元々記憶はそれらの場面をそれ程細部まで覚えておこうと勤めたのではなくて、後になってそれらの場面が眠っている深みから掘り出され、再び結び合わされ、…言わば燭台の光の間に置かれたのであった』
  『私はドイツ人がどんな民族であるかを良く知っている。ドイツ人は始め暫くは口をつぐみ続け、やがてけちを付け始め、それから抹殺してしまい、最後に剽窃して口を拭っている(ゲーテ)』





「マンの足跡」

トーマス・マンに関しましては、その家柄と稀なる天才ぶりで非常に有名な方なので、日本のテレビ番組、 例えば「世界遺産」や「世界不思議発見」などで取り上げられていまして、 敢えて述べるまでもないかもしれませんが。。。

1875年06月06日 ドイツ西北・ハンザ同盟都市リューベックで生まれる
父は同市の有力な素封家
(「ブッテンデローク家の人びと」で素封家としての父の家族のことが書かれています)
母はブラジル人とドイツ人のハーフ、リューベック門外の寄宿学校に居た
1882年 7才 就学、母からもピアノや歌曲や小説の情操教育を受ける
1889年 14才 カタリネリウム・ギムナジウムの実科へ入学する
1890年 15才 堅信式を済ませる
1892年 17才 父が他界し、母はミュンヒュンに移り住む
1894年 19才 学校を卒業し、ミュンヒュンに移り住む
火災保険会社へ見習社員として入社するが、直ぐに退社する

ミュンヒュンの工業大学の聴講生となる
1895年 20才 画家を目指す兄と共に翌年まで、イタリアを周遊したり、ミュンヒュンに戻ったりを繰り返す
この頃、早くも、執筆していた短編の芸術的才能を世の中に認められる
(凄いですね、人は30才前後にならなければ、物事の判断や道理や普遍性など理解出来ず、本など書けるものではないし、どの文豪もその位まで、認められることなど無いのに、まさしく天才ですね)
1897年 22才 フィッシャー(4年後にヘッセを見出した方と同じかと。。。)書店の薦めで「ブッテンデローク家の人びと」を書き始める
1900年10月 志願兵としてバイエルン歩兵部隊に入隊するが、腱鞘炎を起こし入院して軍務を解かれる
1901年 26才 「ブッテンデローク家の人びと」が出版され、ドイツ文壇に新風を起こし、その一角に独自の地歩を占める
(ちなみに、この時の原稿料も破格値だったらしいです、あ゛〜人生って不公平ですよね。。。)
1905年 30才 カチャ・プリングスハイム(ミュンヒュン大学教授の娘)と結婚する
この年からほぼ毎年、子供が誕生する
1910年 35才 女優をしていた下の妹が自殺する
1914年 39才 第一次世界大戦が始まる
1919年 44才 ボン大学から名誉教授の称号を贈られる
1923年 48才 母が他界する
1927年 52才 上の妹が自殺する
1929年 54才 ノーベル文学賞を受賞する
1933年 58才 ヒットラー政権が成立する
スイスに亡命する、娘が原稿を救出する
1935年 60才 アメリカ・ハーバード大学から名誉教授の称号を贈られる
1936年 61才 ボン大学から名誉教授の称号剥奪の書簡を受け取る(亡命したから?ですかね)
1938年09月 アメリカに亡命する
1939年 64才 アメリカ・プリンストン大学から名誉教授の称号を贈られる
1942年 67才 リューベックの生家がイギリス軍によって爆撃される
1944年 69才 アメリカ国民と成る
ルーズベルト大統領に四選される
1949年 74才 長男が自殺し、16年ぶりにドイツに帰る
ゲーテ賞を受賞する
1952年06月 スイスに移り住む
1955年05月
          08月12日
80才
リューベックから名誉市民を贈られる
チューリッヒ湖畔キルヒベルクの自宅にて永眠する
同市の墓地に葬られる





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