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KIRA_PINK 「開高 健」
KIRA_PINK 「三島 由起夫」
KIRA_PINK 「川端 康成」



「開高 健」

  芥川賞作家、冒険家、釣り人、茅ヶ崎市民、サントリーのコマーシャル、私がご紹介させて頂いている作家達の中で、唯一皆さんの記憶の中に、これらの実像の内何等かの姿が、未だ残像と成って残っている作家ではないでしょうか?
冒険家、釣り人、サントリーのコマーシャルでは、猛々しいく、秩序を持たない野性的な奔放さを、その面構えに刻んでいました。
その一方で、抒情作家のこの方は、繊細な心の揺らぎと、人間の持つ内面の正直さと、確固とした正義感を表現していました。
これ程の極端さの両方を受け入れるということは、多分、何人にも出来ることではないかもしれません。実際この私も、抒情作家としての作品以外は、読み飛ばしているのですから。さて、あなたならどちらの開高を受け入れられるのか、一度作品に触れて試してみては如何でしょうか?

開高健賞    主催:TBSブリタニカ
 実は、「鏡の中の墓標」はこの賞に応募する為に書いたのですが、箸にも棒にも掛からなかったのです。やはりコネが無いと駄目なのですかね???開高の文学を十分映し出していると思うのですが。。。

作品紹介





「三島 由紀夫」

  この作家の著作を語る時、「死」を抜きにして語るのは不可能である、多分そう言い切ったとしても決して過言ではないでしょう。 彼は死というものを、肉体の滅び(これについての彼独特の甘美的観念も語らずにはいられないのですが、それは後回しとしまして)と、魂の崇高な導きだと詠っています。 彼が描き出す作品の中で、登場人物達の内面は、実に美しい織物の様に、見事な交差を見せてくれるのですが、そんな彼等の心底には、必ずや「死」が存在するのです。 皆さんの中には、この作家がどの様な死に方を選択したか、知らない方もいらっしゃるかもしれないので、 敢えて述べさせて頂きますと、東京大学大隈講堂の塔の天辺から、軍国主義を大きく胸に掲げて主張し、その後自衛隊の駐屯地で、いわゆる介助人を伴った割腹自殺を遂げたのです。 死に対してある種の憧憬を抱いていたこの作家は、詩人特有の、あの「美」に対する執拗なまでの執着心を、 死という形をもって、表現していたのかもしれません。 しかし、この作家が選んだ自己表現の方法が例えそうであったとしても、詩人の本質である形而上と感傷は、作品の中に生き生きと描かれていて、決して純文学愛好家を絶望させるような無粋なこともないですから、ご安心下さい。
  さて、話は変わりますが、三島氏の作品に対して、私がとても愛着を持っているというお話を、少しばかりさせてください。何故なら、作品の舞台として好んで用いるられている場所が、私の馴染みの地域である関東地方(東京・神奈川)を、 主としているからで、わずか30年前のこの地域の文化は、何も変わっていないようでも有り、懐かしさを含んでいるようでも有り、とても興味深い趣をまざまざと書くことの出来る作家の作品に心を引かれています。 そんな中で、一つ面白い発見をしました。現在では当たり前として存在する言葉が、当時は受け入れ難い新しい文化として書かれいたのです。例えば、「意外」や「わりかし」という言葉が、当時の若者達の流行古語だというでは有りませんか、現在では、これらの言葉は、本来の日本語として認識されていますよね。 そう考えると、現在のこういった流行語の最も代表的な言葉が「かなり」や「ちょ〜」ではないかと気づき、 いつの時代でも日本人が、大袈裟を表現する形容詞を好んで流行語とする傾向にあることが、とても面白いと思いませんか?

三島由紀夫賞    主催:新潮文芸振興会
 来年度のこの賞に「昭和ロマン」がノミネートされる資格が有るのですが、コネ無しでは無理なのかな???
純文学を担っていく新鋭という条件を、十分満たしているとは思いませんか???

作品紹介
1947年 「岬にての物語(短編集)」
1948年 「盗賊」
1949年 「仮面の告白」
1949年 「花ざかりの森(短編集)」
1950年 「愛の渇き」
1950年 「青の時代」
1952年 「禁色」
1952年 「アポロの杯」
1953年 「真夏の死(短編集)」
1954年 「女神(短編集)」
1954年 「サド公爵夫人・わが友ヒットラー 鍵のかかる部屋」
1955年 「沈める滝」
1955年 「小説家の休暇」
1955年 「ラデイゲの死」
1956年 「潮騒」
1956年 「金閣寺」
1956年 「永すぎた春」
1956年 「鹿鳴館」
1957年 「近代能楽集(短編集)」
1957年 「美徳のよろめき」
1958年 「鏡子の家」
1960年 「獣の戯れ」
1960年 「熱帯樹」
1962年 「美しい星」
1963年 「午後の曳航」
1963年 「絹と明察」
1964年 「宴のあと」
1965年 「音楽」
1965年 「春の雪(豊饒の海第一巻)」
1967年 「奔馬(豊饒の海第二巻)」
1968年 「暁の寺(豊饒の海第三巻)」
1970年 「天人五衰(豊饒の海第四巻)」
 『狐はすべて狐の道を歩いていた。猟師はその道の藪かげに身をひそめていれば、難なくつかまえることができた。 狐でありながら猟師の目を得、しかも捕まることがわかっていながら狐の道を歩いているのが、今の自分だと思った』

19 年 「殉教」
19 年 「葉陰入門」
19 年 「裸体と衣装」






「川端 康成」

 作家というものは、この世という世界に吹くあらゆる風を全身で受け取め、全てをその体内へと吸収し、心に集めて、そこで言葉にするのである。
川端康成は、そんな形而上を最も素直に表現していた作家ではないだろうか、氏の作品を読んだ時、直ぐさまこんな形容が私の心に浮かんで来ました。
その生い立ちは、氏の作品の中で赤裸々に語られ、罵られ、哀れまれ、破壊され、蔑まれていて、ノーベル文学賞受賞者の完全なる意外性を、 まざまざと我々に見せ付けてくれているのですが、それこそが、私の長年抱いていた疑問の答えでありました。 現在の東京大学在学中に投稿と創刊を果たし、28歳の時に「伊豆の踊り子」を発表して以来、47年間という長きに渡って日本文学の第一人者として執筆し続け、 社会になど一度たりとも出たこもなく、伊豆の旅館に逗留する、もしくは軽井沢の別荘に滞在する。そんな風に書き続けられたら、どんなに素晴らしいこと だろかと、既に羨ましいなどという言葉ではとても表現出来ない私の羨望心は、指を勝手に動かし始める程の衝撃を、顕にしていました。
それなら、一体あの文章は、二十代の時から何故書けたのでしょうか?せめて50を越えた人の文章としか思えない、あの芯の有る文章は? 三島氏でさえ、30歳を前にものを書くな、と言っているように、社会に出て初めて人は、世の中の風を感じることができ、人と話が出来、人の気持ちを理解し始め、 それを生業と感じた者が、作家となるのではないだろうか?そんな私の疑問の答えが、物心の付いた時から大人達の間をすり抜ける様にして生きてきた中で心を育ててきた少年に、 15歳にして作家という職業に目覚めた早熟な強さに、そんな所にあるような気がします。
さて、川端氏の作品の楽しみ方を、もう一つ紹介させて頂くと、現代の私達が知っていそうでありながら、実は全く未知なる時代があるとしたなら、それは大正後期〜昭和初期ではないでしょうか、 そんな時代がまざまざと書かれているのが、文芸時評集「伊豆の旅」です。 その時代は、寿命も今ほど長くなかったからなのか、特に女性が、現代の若者達よりも余程大人びているのに驚かされます。 (しかし、伊豆の温泉場の女性達のことが書かれているだけなので、一概には言えないかもしれませんが)
更に余談ですが、「伊豆の旅」の中で最も面白い話だと私が思えたこんな一説を聞いてください、伊豆こそ、もっとオアシスであるべきだと推奨する川端氏が、 「東京から熱海の間を走る列車の名前を『ロマンス・カー』と言うそうで、なんとも洒落た名前ではないか」と書いているのです。 私はたまたまその文章を、東海道線の中で読み、下車したホームの下りの案内電工掲示板には、次の列車の名前に「踊り子」と書かれてたのです。 一体、「ロマンス・カー」が無くなり、東京から修善寺までの列車の名前が「踊り子」だと知ったら、川端氏は何と言ったでしょうか?
私は一人ニタニタとしながら、改札口へと歩いた次第でありました。

川端康成文学賞    主催:川端康成記念会 / 後援:新潮社
 前年において、文学的に最も優れていた作品に贈られるそうです。新人賞的な芥川賞を受賞後、この賞を受賞するパターンが多いようです。

作品紹介
川端氏は投稿(投書)家であった為、その著作は莫大な数の短編がある、故にここでは、著名な単行本のみを紹介します。
「骨拾い」(短編集)
  1916年 「骨拾い」
  1919年 「ちよ」
  1923年 「葬式の名人」
  1923年 「日向」
  1924年 「篝火」
  1925年 「十六歳の日記」
  1926年 「伊豆の踊子」
  1927年 「処女作の祟り」
  1932年 「父母への手紙」
「婚礼と葬礼」(短編集)
  1924年 「生命保険」
  1926年 「婚礼と葬礼」
  1926年 「彼女の盛装」
  1927年 「梅の雄蕊」
  1927年 「毛眼鏡の歌」
  1927年 「犬」
  1929年 「海山敍景詩」
  1930年 「秋消える海の恋」
  1931年 「舞踊」
  1931年 「空の片仮名」
「川端康成作品選」
  1924年 「月」
  1925年 「夏の靴」
  1925年 「有難う」
  1932年 「抒情歌」
  1933年 「末期の眼」
  1934年 「文学的自叙伝」
  1935年 「雪国」(ノーベル文学賞受賞作品)
  1936年 「イタリアの歌」
  1947年 「反橋」
  1949年 「しぐれ」
  1949年 「住吉」
  1951年 「たまゆら」
  1953年 「千羽鶴」
  1960年 「眠れる美女」
  1961年 「美しさと哀しみと」
「温泉宿」
  1919年 「招魂際一景」
  1925年 「青い海黒い海」
  1927年 「春景色」
  1929年 「温泉宿」
「川端康成少年少女小説集」
  1929年 「級長の探偵」
  1932年 「雨傘」
  1932年 「愛犬エリ」
  1933年 「開校記念日」
  1933年 「夏の宿題」
  1934年 「駒鳥温泉」
  1935年 「弟の秘密」
  1936年 「翼にのせて」
1927年 「海の火祭」
1931年 「水晶幻想 」
1936年 「花のワルツ」
1937年 「乙女の港」
1940年 「名人」
1949年 「山の音」
1950年 「天授の子」
1950年 「虹いくたび」
1950年 「舞姫」
1953年 「川のある下町の話」
1954年 「みづうみ」
1955年 「ある人の生のなかに」
1956年 「女であること」
1958年 「遠い旅」
1961年 「古都」
1965年 「たまゆら」
1968年 「美しい日本の私」(ノーベル文学賞受賞公演)
1972年 「雪国抄」(「雪国」の改定版)



「自殺の本当の理由など誰も確定出来ない」
 ただこれが、ノーベル賞騒ぎに表れている日本人特有の事大主義に、水を掛ける事件になったことだけは間違いがない。
何故君達は、世俗的な名前だけに惑わされるのか。何故もっと本当の人間の姿、本当の人間の願い、祈りを見ようとしないのか。
目を覚まして、冷静に自分を見、相手を見よ、そうしてそこから本当の愛の心を養い育てよ、そのことを身を以って気づかせようとした、
作家川端最後の挑戦として、我々は彼の死を受け止めていいだろう。(羽鳥徹哉)







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