1877年07月02日 |
南ドイツ・シュバーベン・カルプに生まれる
祖父母、父母、共にインドで布教活動に従事した牧師であった |
1890年 13才 |
神学校受験の為に、ゲッピンゲンのラテン語学校に入る
(「ラテン語学校生」は下宿先で知り合った女中さんとラテン語学校生の恋を書いたもので、身分の違いをはっきり認識する現実的な女中さんと、盲目の恋に苦悩するエリート学生のお話でした、さてその結末は。。。) |
1891年07月 |
難関で知られるマウルブロン神学校に合格
(当時のドイツでは、難関の神学校が幾つか有り、そこを卒業すれば、一生裕福と安泰が保証されている牧師か教師に成れたそうです) |
09月 |
入学 |
1892年03月 |
神学校から発作的に逃亡する |
05月 |
退学
精神療法をする牧師の元に預けられるが自殺未遂を起こす
バーゼルの伝道館にあずけられる
(「詩人に成るか、でなければ、何にもなりたくはない」という信念を持っていたようなのですが、何時の世でも家族というものは、「作家であるのは喜ばれるが、作家に成ることは愚弄される」ということですね)
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11月 |
カンシュタットの高校に入る |
1893年10月 |
退学
エスリンゲンで本屋の見習いに成るが、3日で逃亡する
カルプに戻り、父(牧師)の仕事を手伝う |
1894年 17才 |
町工場の見習い工と成る
(神学校の受験勉強から見習い工と成るまでを描いたのが「車輪の下」、神学校の先生がエリート生徒達に、「君達と机を並べられない凡人達は、車輪の下の生活しか出来ないというセリフが有り、お受験人生の見苦しさを知る良い一冊です) |
1895年10月 |
大学町チュービンゲンのヘッケンハウアー書店の見習い店員と成る
(現在でも学生牢や哲学の道などの観光名勝で有名な町です)
安住の地をやっと掴み、詩や散文を書き始める |
1899年 22才 |
「ロマン的な歌(詩集)」「真夜中後の一時間(散文集)」を自費出版するが、53冊しか売れなかった
物書きの店員は要らないと本屋を追い出され、バーゼルのライヒ書店に移る |
1901年 24才 |
「ヘルマン・ラウシャーの遺稿の文と詩」刊行
新鋭新人ブッセや著名編集者フィッシャーに認められる |
1902年 25才 |
「詩集」刊行
母に捧げたが、直前に母は他界する |
1904年 27才 |
「郷愁」を刊行、一躍文名を高める
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1905年 28才 |
ヴィーンのバウエルンフェルト賞を受ける
9才年上のマリーア・ベルヌリと結婚する
(その後作家に専念し、トントンと作家人生を上って行く、34才の時にセイロン、スマトラ、シンガポールを半年間旅をし、「ドイツとシンガポールの間に、最も美しい楽園を見た」と言っています) |
1914年 37才 |
第一次世界大戦が始まる
兵役を免ぜられ、ドイツ捕虜の慰問の為に奉仕する5 |
1915年 38才 |
平和主義を唱えた為、売国奴と非難されて、新聞雑誌からボイコットを受ける |
1916年 39才 |
父が他界する
妻が精神病を悪化させ、入院する |
1919年 42才 |
スイスのルガーノの郊外モンタニューラに一人移り住む
水彩画を書き始める(画家としてのヘッセも有名なんですよ。。。) |
1923年 46才 |
正式に離婚
スイス国民と成る
(「湖畔のアトリエ」は夫婦の亀裂を描いたもので、一度崩れてしまった絆を取り戻すことの難しさと、夫婦の宝である子供の問題が綴られています) |
1924年 01月 |
ルート・ヴェンガーと結婚 |
1925年 48才 |
トーマン・マンをメュンヒュンに訪ねる |
1926年 49才 |
プロイセンの文芸院の在外会員に選ばれる |
1927年 50才 |
ルート・ヴェンガーと離婚 |
1930年 53才 |
プロイセンの文芸院から脱退 |
1931年 秋 |
ニノン女史と結婚
(前回2回は年上の人と結婚したのですが、この時は確か20才近く年下の女性と結婚したとか。。。) |
1933年
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ヒットラー政権が成立する
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1936年 59才 |
スイス最高の文学賞ゴットフリート・ケラーを受賞する
(ちなみに日本の「芥川賞」は、新人に贈られるものです) |
1939年 |
第二次世界大戦が始まる
ドイツでは「好ましからぬ作家」となり、ヘッセ本に紙の割り当てがとめられる |
1946年 69才 |
ゲーテ賞を受賞する
ノーベル文学賞を受賞する
(日本でもこれまでに二名の方が受賞されていますが、これについては「日本」で述べたいたいと思います) |
1947年 70才 |
アンドレ・ジッドからの訪問を受ける
ベルン大学から名誉博士の称号を贈られる
カルプ市から名誉市民を贈られる |
1950年 73才 |
ブラウンシュバイク市からラーベ賞を贈られ |
1952年 75才 |
ドイツ・スイスの各地で記念の催しが行われた |
1954年 77才 |
ホイス西ドイツ大統領からプール・ル・メリト勲章を贈られる |
1955年 78才 |
ドイツ書籍業の平和賞を贈られる |
1956年 79才 |
西ドイツカールスルーエ市にヘッセ賞が設けられる |
1962年08月09日85才 |
モンタニューラの自宅で永眠する
聖アボンディオ教会に葬られる |