ヘルマン・ヘッセ



KIRA_PINK 「ヘッセについて」
KIRA_PINK 「作品集」
KIRA_PINK 「名言集」
KIRA_PINK 「ヘッセの足跡」



「ヘルマン・ヘッセ」

 ゲーテやマンが典型的な印象派のモネやルノアールだとしたら、ヘッセは印象派後期のゴッホやピカソだと言えるのではないでしょうか。
初期(「郷愁」「車輪の下」「春の嵐」)の現実的であり、庶民的であると同時に、詩人の拘りを持った表現から、中期(「クヌルプ」「デミアン」「湖畔のアトリエ」)には幻惑的な方向性と、 人間の内面への探求心を芽生えさせ、後期(「荒野の狼」「知と愛」「ガラス玉演戯」)には異常とも思える真理状態の主人公達が、果てしない心の奔走をとげ、 如何なる哲学も彼等の精神を解き明かすことなど出来ないかと思わせる程の虚実の世界へと、ヘッセは変わっていきました。
もし、ヘッセと同じ時代に生きていたならば、その変容も受入れることが出来たのかもしれませんが、一時期に全てを読んでしまった私は、そんな変容に着いて行くことが出来ずに、 もの凄い衝撃と空虚感を感じさせられました。
いや、もしかするとその一貫性の無さこそが、万華鏡的な赴きを見せて、より多くの人の共感を得ているのかもしれませんね。。。
実際、日本に於けるヘッセの人気はかなり高いもので、一連のヘッセ作品の訳者である高橋健二氏の死亡を伝えた新聞記事など、結構大きく取り上げられていましたよね。
しかし私としては、やはり初期の作品が最も好きで、中でもノーベル文学賞を獲得した「春の嵐」が一番だと思っています。





「作品集」

1904年「郷愁」
1906年「車輪の下」
1907年「この岸(短編集)」(邦題「乾草の月」)
「大理石材工場」
「少年時代から」
「ラテン語学校生」
「秋の徒歩旅行」
「乾草の月」
1908年「隣人(短編集)」
「婚約」
1910年「春の嵐」(ノーベル文学賞受賞作)
1910年「平和の家」
1911年「途上(詩集)」
1912年「まわり道(短編集)」(邦題「婚約」)
「神父マチアス」
「世界改良家」
「帰郷」
「エミール・コルプ」
1914年「湖畔のアトリエ」
1915年「クヌルプ」
1915年「孤独者の音楽(詩集)」
1916年「青春は美し」
1919年「デミアン」
1919年「メルヒュン(短編集)」
「アウグスツス」
「詩人」
「笛の夢」
「別な星の奇妙な便り」
「苦しい道」
「夢から夢へ」
「ファルドウム」
「アヤメ」
1920年「放浪(詩集)」
1920年「クリングゾルの最後の夏」
1922年「シッダルータ」
1924年「湯治客(手記)」
1926年「絵本」
1927年「荒野のオオカミ」
1928年「観察(中編集)」
「ドフトエスキー文学について」
「カラマゾフ兄弟」
「白痴」
1928年「危機(詩集)」
1929年「夜の慰め(詩集)」
1930年「知と愛」

  ここで執筆を止め、過去の短編作品の改定に専念する
1931年「内面の道」
1933年「小さな世界」
1935年「物語集」
「聖者とパン」1909年
「ふたりの罪びと」1909年
「幼い日の聖フランシス」1920年
「恋の痛手」1907年
「ハンネス」1906年
「語り手」1905年
「小びと」1904年
「三本のボダイ樹」1912年
「内と外」1920年
「プレッセルのあずま屋」1913年
「蔵書家」1918年
1937年「思い出草(随筆)」
1943年「ガラス玉演戯(評論)」
1945年「夢のあと」
「トウのイス」1918年
「悲劇的」1922年
「魔術師の夢」
「自伝素描」1925年
1946年「戦争と平和(論文)」

1951年「晩年の散文(短編集)」(邦題「幸福論」)
「盗まれたトランク」
「中断された授業時間」
「幸福論」
「湯治手記」
「クリスマスと二つの子供の話」
1955年「過去を呼び返す(短編集)」
「小ガラス」
「マウルブロウ神学校」
「祖父とのこと」
「秋の体験」
「エンガディーンの体験」
「過去とのろぐり会い」
「過去を呼び返す」
「マルラの為に」
1961年「階段」





「名言集」

  「郷愁」
  『こういう色々なものは、既に幼年時代を満たすに足り、場合によっては一生涯をも満たすに足りる。なぜなら、そういうものは皆、 人間の唇に今だかつて上ったことのないような神の言葉を、声高く、歪めずに語るからである。それをその様な形で幼年時代に聞いた者にとっては、それは一生涯を通じ、 甘く強く恐ろしく鳴り響き続ける。彼はその魔力から決して離れることはない。山を故郷とする者は、例え幾年も哲学や博物を研究し、 古い神を放棄することがあろうと−いつか又南風を感じたり、雪崩が森を突き破るのを聞いたりすれば、胸を震わせ、神や死のことを考えるのである』
  『ここでも生来の怠け癖が頭をもたげ、様々の腹立たしいことや罰をもたらしたが、やがて何か新しいことに熱中すると、怠け癖は引っ込んだ』

  「車輪の下」
  『それは苦痛ではなくて、急な脈拍と激しく興奮させられた力との性急に凱歌を上げる活動、まっしぐらに前へ進もうとする欲望だった』
  『少年が木のサーベルやパチンコや弓やその他の子供らしいおもちゃを捨てて、先へ進もうとする努力を始め、真剣な勉強によって、 豊頬の乱暴者が躾の良いまじめな殆ど禁欲的な少年になり、その顔が大人びて精神的になり、その眼差しが深さを加え、目指すところがはっきりしてき、 その手がだんだん落ち着いて白く静かになるのを見ると、教師の魂は喜びと誇りに笑うのである。 …今は幸福な市民や熱心な役人になっている人達の中にも、学校のああした努力が加えられなかったら、奔放で向こう見ずな革新家か、無為な思念をこととする夢想家になった者も、 少なくないであろう。
…原始林が切り透かされ、整理され、力でもって制御されねばならないように、学校も生まれたままの人間を打ち砕き打ち負かし、力でもって制御しなければならない』

  「ラテン語学校生」
  『結局、そういう事態におかれた人がたいていするように、彼女もした。つまり、いろいろな決心を思い比べているうちに、 それがすりへらされてしまい、どれも最初の時と同じような懐疑的な動揺に逆戻りしてしまうのだった。そしていざ実行という時になると、 彼女は前に熟慮したり決心したことを一言も言わず、行いもせず、全くその時その時の成行きのままになってしまうのだった』
  「秋の徒歩旅行」
 『恐らく、どんな人間であろうと、凡そ人間には、投げられた球の様に、転がって行く軌道が決まっているのだ。運命を強制したり、 からかったりしているつもりでも、とっくに定められた線に従っているのだ。何れにしても、「運命」は私達の内に有り、外に有るのではない』

  「春の嵐」
  『避け難い運命を自覚をもって甘受し、良いことも悪いことも十分味わい尽くし、外的な運命と共に、 偶然ならぬ内的な本来の運命を獲得することこそ、人間生活の肝要事だとすれば、私の一生は貧しくも悪くもなかった。
…胸の奥では私は、拒み難い警告者を、即ち、純粋な、快い、内的に幸福な音と余韻に対する渇望を感じているのであるが、私の生活は偶然と不調和に満ちている。 どちらを向き、何処をノックしても、何処からも私には純粋に澄んだ音は反響して来ない』
  『彼は不幸せだったので、まるで自分を慰めてくれる者をひったくろうとするかの様に、 人間を掴、心にも無い暴力的な性癖を持っているのだ』

  「世界改良家」
  『全くこれでもかと鼻でも小突くように、幸運は、この立派な女性を彼の足のさきに置き、この人にすがれ、と注意していた。 しかし、人間を幸運とめぐり合せるより困難なことはない』
  「ロバート・アギオン」
  『到る所に宗教が在った。ロンドンでは確かに、教会の最高のお祝い日にも、 ここで平日あらゆる小路で見られる程の信仰心も認めることが出来なかった。
…祈りと寺院の勤めに心から没頭する民族の間で、盗みや嘘、偽証や背任は、日常ありふれたことで、誰も怒りはしないし、怪しみさえしなかった。この民族は、 あらゆる論理と理論とを嘲る解き難い謎と成る様に思われた』

  「湖畔のアトリエ」
  『最も偉大な芸術家については、…例えば国王とか王侯とかいう特権階級だと思っている。我々級の者は、せいぜい将軍とか大臣ぐらいまでしか、 成り上がれはしないのだ。… つまり僕らとしては一生懸命勉強して、自然を出来る限り真摯に追求すること以外には何一つ出来はしないのだ。ところが、王侯の階級は、自然の兄弟でもあり、 友達でもある。彼等は自然と一緒になって「遊ぶ」ことが出来るし、自ら創造することが出来るのだ。僕らが自然を真似て型取ろうとしている間に 』
  『希望を持てる人間こそ、即ち幸せですよ』

  「クヌルプ」
  『だいたい願望というものは滑稽なもんだ。僕がたった今ちょっとお辞儀をしさえすれば、可愛い小さな男の子になれるとしても、そして君がお辞儀しさえすれば、 上品な優しい老人になれるとしても、僕達のどちらもお辞儀はしないだろう。それよりも今のままでいたいと思うだろう』
  『一番美しいものはいつも、満足と共に悲しみを、あるいは不安を伴う時、美しいのだ、と考える。…だから、どこかで夜、花火が上げられる時程美しいものを、 僕は知らない』

  「青春は美わし」
  『それに夜は共同生活の習慣的な感情を遠ざける。明かりがついていず、人声ももう聞こえない時、まだ目をさましている者は、一人ぼっちにされているのを感じ、 自分が他から引離され、孤立させられているのを見る。そして、のがれようもなく一人きりである。一人で生き、一人で苦痛と恐怖と死とを味わい、 耐えなければならないという、あの極度に恐ろしい人間的な感情が、あらゆる考えにひそかに混ざって響き、健康で若いものには陰影となり警告となり、 弱いものには戦慄となる』
  『知識は全くなんの役にも立たないんだからね。ようく知っていると思っていた人が、心得るとか確実に知るとかいうことが、なんにもならなかったということを、 人に示すような事柄をすることが、毎日のように起きるんだよ』

  「デミアン」
  『全ての人間は、彼自身であるばかりではなく、一度きりの、全く特殊な、誰の場合にも世界の様々な現象が、ただ一度だけ二度とは無い仕方で交錯するところの、 重要な、顕著な点なのだ。だから、全ての人間の物語は、重要で不滅で神聖なのだ。だから、全ての人間は、とにかく生きていて、自然の意志を実現している限り、 驚きと注目とに値する。全ての人の中で、精神が形となり、生物が悩み、救世主が張り付けにされているのだ』
  『一種の覚醒が私の馴染んでいた感情や喜びをを歪め、色あせさせてしまった。庭は香りを失い、森は誘わず、身近の世界は古物の見切り売りの様に味気と魅力を無くした。 書物は紙になり、音楽は騒音となった。さながら秋の木の回りに葉が落ちる様だ。木はそれを感じない。雨が木にそって滴り落ちる。あるいは日光が、あるいは霜が。 木の中では生命が徐々に一番奥の窮屈な所に引っ込んでしまう。木は死にはしない。木は待っているのだ』

  「アウグスツス」
  『暗い廊下から、自分の出てきたはるか遠い明るい点を見るようなぐあいだった。かつては自分の身辺が明るく美しかったが、それが徐々に暗く暗くなり、 ついには自分が全く暗やみの中に立ち、何ごとにももはや喜びを感じなくなった次第を、思い浮かべた。思いめぐらし、追想すればするほど、はるかな小さい光はいよいよ美しく、 愛すべく、願わしく、こちらを見ていた。ついにその光を見きわめると、涙が両目からあふれ出た』
  「夢から夢へ」
  『おお、涙よ、おお、甘い崩壊よ、幸福な溶解よ。思想と詩とに満ちた現世のあらゆる書物も、感情が波打って流れ、魂が深くみずからを感じ見いだすすすり泣きの一分に比べれば、 何ものでもない。涙は、溶ける魂の氷だ。泣くものには、すべての天使が近づく』

  「荒野のおおかみ」
  『この様に悩んでいる人の病気はその性質に何らかの欠陥があることに基づいているのではなくて、それとは反対に、 天分や力が非常に豊かであるがそれがただ調和に達しないことに基づいているのだ』
  『もちろん大多数の人間は泳ごうとしません。地面に生まれついて、水に生まれついてはいません。それからもちろん彼等は考えることを欲しません。生活する様に創られていて、 考える様に創られていません。そうです、考える人、考えることを主要事とする人は、その点では多いに成果を上げるでしょうが、まさしく地面を水と取り替えたものであって、 何時かは溺れるでしょう』

  「知と愛」
  『強い鋭敏な感覚を持つ人、…、夢想家、詩人、恋する者、そういう人は、我々他の者、つまり精神の人間に、大抵の場合勝っている。君達の素性は母性的なのだ、 君達は充実したものの中に生きている、君達には愛と力と体験し得る力とが与えられている。我々精神的な人間は、しばしば他の者を導き支配している様に見えるかもしれないが、 充実したものの中には生きてはおらず、干乾びた生活をしている。充実した生命、果実の汁、愛の庭、芸術の美しい国が君達の物だ。君達の故郷は大地だが、僕達の故郷は観念だ。 君達の危険は、感覚の世界に溺れるこだが、僕達の危険は、真空の空間で窒息することだ。君は芸術家で、僕は思索家だ。君は母の胸に眠るが、僕は荒野に覚めている』
  『芸術も芸術家であることも、もしそれが太陽の様に燃えないならば、嵐の様な力を持たないならば、快感やささやかな幸福をもたらすに過ぎないならば、彼にとって無価値であった』

  「語り手」
  『失われた子供の快活さとまだ達せられない青年期との間を、若い人々が暑い街道上の閉切られた二つの庭の間を歩く様に、訳も無く熱情的に求めつつ、又訳も無く悲しみつつ歩く、 あの短い異常な時期の只中に居たのです』
  「プレッセルのあずま屋で」
  『人を孤独にする栄誉の自覚も未だ、その独特の苦痛をもって詩人の魂の中に入り込んではいなかった。なる程彼は、その様に不可思議に心を奪われた一時から、突然、 激しく込み上げて来る苦痛と慰めを求める気持ちに駆られて、脅えた子供の様に、友達の所に逃げて来ることが良くあったけれど、…』

  「ガラス玉遊戯」
  『精神的職業はもう深く沈んでしまって世間の眼には破産していた。…栄光と幸福をより多く求めて努力する様な才能は、もはや愛せられるに値しなくなった精神性に背を向けて、 繁栄と金儲けを委ねられたそういう種類の職業を、求めねばならなかったのである』
  『人々は哲学へ、総合へ憧れた。それぞれの分野に純粋に引きこもっているという従来の幸福は、不十分なものと感ぜられた』

  「トウのイス」
  『それで一瞬がっくりして悲しくなった。これまで度々有ったことが、偉大な人々の生活を読んで勇気を失う度毎に成るのと同じ様な状態に成った。 つまり、あの偉大な人達の生活で立派な役割を演じている様な、些細な事物や、暗示や、異常な廻り合せが自分には欠けている、いくら待ってもやって来ないのだ、と思った』
  「悲劇的」
『ボルネオやあの島々の全てで極楽鳥や像や大虎を絶滅させた様に、優美な文章、倒置法、我々の愛すべき言語の微妙な戯れや陰影をすっかり根絶させてしまいました』

  「戦争と平和」
  『自らの生活を生きることを学べ。自らの運命を認識することを学べ。…運命が偶像からは来ないことを学べ。…運命を外から受け入れる様な人は、運命に殺される。 …運命が内から、自己の最も固有な所から来る様な人は、運命によって強められ、神にされる。…君達が運命を変えようと欲せず、運命を自分の子供に、自分の心に、 全く自分自身にしたならば、運命はどんなに甘い味のすることだろう。 …君達はいつも確信し、自信をもっていた。そしてそれは何時も悲しい喜劇で有り、不幸に終わった。 今や君達は、我々の中の苦痛を敵の背にすることによって癒すことが出来ないということを悟った』
  『行為、それは、行う前に、「何を成すべきか」と尋ねる様な人間によっては、未だかつて成されたことはない』

  「湯治手記」
  『自分の本は、全ての文学作品の様に、単に内容から成り立っているのではないこと、むしろ内容は相対的に重要ではないこと、著者の意図の様なものと同様に重要でないこと、 私達芸術家にとっては、著者の意図や意見や思想にちなんで、言葉の材料、言葉の糸から織られた作品が出来上がったかどうか、それが問題なので、 その作品の測り難い価値は内容の測り得る価値より遥かに勝っている…』

  「マウルブロン神学校生」
  『理解されなかったのだ。人間は別の領域に生きているもので、一人ぼっちなのだ。長い間、恨みと幻滅に彼は悩み続けた』
  「過去とのめぐり会い」
  『…カルプの古い家で体験し耐え忍んだこと、十年後同じ家で小説として客体化しようと試みたこと、それは死んでも消滅してもいなかった。 半世紀の後、日本訳を通じてさえ、自分自身への道で戦い、危険に陥った若い人に話し掛け、その道の一部を明るく照らしたのだった』





「ヘッセの足跡」

1877年07月02日 南ドイツ・シュバーベン・カルプに生まれる
祖父母、父母、共にインドで布教活動に従事した牧師であった
1890年 13才 神学校受験の為に、ゲッピンゲンのラテン語学校に入る
(「ラテン語学校生」は下宿先で知り合った女中さんとラテン語学校生の恋を書いたもので、身分の違いをはっきり認識する現実的な女中さんと、盲目の恋に苦悩するエリート学生のお話でした、さてその結末は。。。)
1891年07月 難関で知られるマウルブロン神学校に合格
(当時のドイツでは、難関の神学校が幾つか有り、そこを卒業すれば、一生裕福と安泰が保証されている牧師か教師に成れたそうです)
          09月 入学
1892年03月 神学校から発作的に逃亡する
          05月 退学
精神療法をする牧師の元に預けられるが自殺未遂を起こす
バーゼルの伝道館にあずけられる
(「詩人に成るか、でなければ、何にもなりたくはない」という信念を持っていたようなのですが、何時の世でも家族というものは、「作家であるのは喜ばれるが、作家に成ることは愚弄される」ということですね)
          11月 カンシュタットの高校に入る
1893年10月 退学
エスリンゲンで本屋の見習いに成るが、3日で逃亡する
カルプに戻り、父(牧師)の仕事を手伝う
1894年 17才 町工場の見習い工と成る
(神学校の受験勉強から見習い工と成るまでを描いたのが「車輪の下」、神学校の先生がエリート生徒達に、「君達と机を並べられない凡人達は、車輪の下の生活しか出来ないというセリフが有り、お受験人生の見苦しさを知る良い一冊です)
1895年10月 大学町チュービンゲンのヘッケンハウアー書店の見習い店員と成る
(現在でも学生牢や哲学の道などの観光名勝で有名な町です)
安住の地をやっと掴み、詩や散文を書き始める
1899年 22才 「ロマン的な歌(詩集)」「真夜中後の一時間(散文集)」を自費出版するが、53冊しか売れなかった
物書きの店員は要らないと本屋を追い出され、バーゼルのライヒ書店に移る
1901年 24才 「ヘルマン・ラウシャーの遺稿の文と詩」刊行
新鋭新人ブッセや著名編集者フィッシャーに認められる
1902年 25才 「詩集」刊行
母に捧げたが、直前に母は他界する
1904年 27才 「郷愁」を刊行、一躍文名を高める
1905年 28才 ヴィーンのバウエルンフェルト賞を受ける
9才年上のマリーア・ベルヌリと結婚する

(その後作家に専念し、トントンと作家人生を上って行く、34才の時にセイロン、スマトラ、シンガポールを半年間旅をし、「ドイツとシンガポールの間に、最も美しい楽園を見た」と言っています)
1914年 37才 第一次世界大戦が始まる
兵役を免ぜられ、ドイツ捕虜の慰問の為に奉仕する5
1915年 38才 平和主義を唱えた為、売国奴と非難されて、新聞雑誌からボイコットを受ける
1916年 39才 父が他界する
妻が精神病を悪化させ、入院する
1919年 42才 スイスのルガーノの郊外モンタニューラに一人移り住む
水彩画を書き始める(画家としてのヘッセも有名なんですよ。。。)
1923年 46才 正式に離婚
スイス国民と成る
(「湖畔のアトリエ」は夫婦の亀裂を描いたもので、一度崩れてしまった絆を取り戻すことの難しさと、夫婦の宝である子供の問題が綴られています)
1924年 01月 ルート・ヴェンガーと結婚
1925年 48才 トーマン・マンをメュンヒュンに訪ねる
1926年 49才 プロイセンの文芸院の在外会員に選ばれる
1927年 50才 ルート・ヴェンガーと離婚
1930年 53才 プロイセンの文芸院から脱退
1931年 秋 ニノン女史と結婚
(前回2回は年上の人と結婚したのですが、この時は確か20才近く年下の女性と結婚したとか。。。)
1933年
ヒットラー政権が成立する
1936年 59才 スイス最高の文学賞ゴットフリート・ケラーを受賞する
(ちなみに日本の「芥川賞」は、新人に贈られるものです)
1939年 第二次世界大戦が始まる
ドイツでは「好ましからぬ作家」となり、ヘッセ本に紙の割り当てがとめられる
1946年 69才 ゲーテ賞を受賞する
ノーベル文学賞を受賞する
(日本でもこれまでに二名の方が受賞されていますが、これについては「日本」で述べたいたいと思います)
1947年 70才 アンドレ・ジッドからの訪問を受ける
ベルン大学から名誉博士の称号を贈られる
カルプ市から名誉市民を贈られる
1950年 73才 ブラウンシュバイク市からラーベ賞を贈られ
1952年 75才 ドイツ・スイスの各地で記念の催しが行われた
1954年 77才 ホイス西ドイツ大統領からプール・ル・メリト勲章を贈られる
1955年 78才 ドイツ書籍業の平和賞を贈られる
1956年 79才 西ドイツカールスルーエ市にヘッセ賞が設けられる
1962年08月09日85才 モンタニューラの自宅で永眠する
聖アボンディオ教会に葬られる





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